文禄4年(1595)、京都伏見にいた前田利家は氷見灘浦のぶり17本を送るようにと命じた。この「塩鰤上納申付け状」は、氷見ぶりに関する最も古い史料とされている。こうした長い歴史を持つ氷見灘浦で、代々網元として漁業を営んできた濵元家は、現当主で17代目となる。
名の頭に四郎(良)を付けることから「シロサ」、または網元であることから「オヤカタ」と呼ばれてきた。
現在の建物は明治後期から大正時代にかけて大敷網の豊漁で財を成した14代 四郎三郎 が、明治43年の泊大火後に再建したもので、火災を教訓に宇波の荻野家を参考に土蔵造りの防火構造となっている。
屋敷は幅約30メートル奥行約80メートルと細長く、手前左手に庭、右手には味噌製造のための土蔵3棟が連続して配され、中央を通路としている。
庭境には生け垣が巡らされ、蔵前の余地にも庭石や庭木が植えられており、緑豊かな風情ある門からのアプローチで、奥の式台玄関を望むようになっている。
濵元家の歴史は、まさに氷見の定置網漁の改良と近代化の歴史と重なっている。
氷見の定置網漁は420余年の歴史があるが、明治34年(1901)に制定された漁業法の中で初めて「定置網」という言葉が用いられるまで、台網(だいあみ)と呼ばれていた。台網は、藁縄でこしらえた藁網で、春はイワシ、夏はマグロ、秋はブリと、三季の漁期ごとに敷設されていた。
明治40年(1907)から41年にかけて、従来の藁の台網を整理・統合し、魚を捕らえる袋状の身網に撥水効果のある柿渋で染めた綿糸と麻糸を併用した新型の「日高式大敷網」が導入され、富山湾内に25カ統の大敷網が敷設された。この年は未曾有のブリ大豊漁となり、氷見の町はブリの大洪水に見舞われたと記されている。
こうした大敷網の定置網漁によるブリの豊漁時代を経て、大正年間には「日高式大敷網」の欠点であった、魚が入りやすい半面、逃げやすい網口を改良した、より大規模な「上野式大謀網」が導入された。
さらに昭和初期には、いったん入った魚群を外に出さない工夫をした「越中式鰤落し網(大敷網)」が敷設された。
昭和40年代には、身網の先端部に新たにのぼり網と網目の細かな小市落としを接続した「二重落し網」が考案され、網の素材もそれまでの綿糸網や藁網に代わって、軽量で丈夫な化学繊維網となり、それまで各季節ごとに敷設していた三季の網から、周年性の網へと変わっていった。
また、従来100人以上の漁師たちで、全てを人力に頼っていた網の敷設や網取り作業を揚網機などの機械を導入することで、いまでは30~40人で行えるようになった。
このように氷見の定置網漁は、古来から受け継がれた長年の伝統を守りながら、常に新しい技術を取り入れて改良し続けてきた。
これは長い年月をかけて培われてきた先人たちの、知恵と研究心と地道な努力の賜物であり、氷見の漁業者たちの心意気と誇りである。